小職は春季と夏季、故郷である熊本県天草に帰省する。生まれも育ちも東京であるが、当主としての役割、すなわち墓参墓守、神道祭事、自宅保全、が自身人生の宿命である。言うなれば、柳田國男の氏神氏子思想的な伝統にプライドを賭けて生きているのである。
小職は春季と夏季、故郷である熊本県天草に帰省する。生まれも育ちも東京であるが、当主としての役割、すなわち墓参墓守、神道祭事、自宅保全、が自身人生の宿命である。言うなれば、柳田國男の氏神氏子思想的な伝統にプライドを賭けて生きているのである。現代人は都市部で生まれ、生活をし、最期を迎える事が一般的である。地方の墓終いは至極普通の事となった。しかし小職にかような選択肢は存在しない。童謡「ふるさと」を顧みれば、一番「兎追いし」は生まれた場、「如何にいます父母」は仕事をする所、最期の「志をはたしていつの日にか帰らん」は魂の還る土地、故郷には三つのコノテーションが読み取れる。小職と天草の関係性は、魂の還る土、そのものである。
今夏も天草に戻り、経営、研究、教育、地元事業、諸事仕事をしている。一方、旅路の友に福田恆存『保守とは何か』を鞄に忍ばせたが、魂の故郷で読む恆存から幾つか紹介しようと思う。恆存は「伝統にたいする心構」にて、「無形文化財のはうが、すなはち形のないもののはうが、むしろ本体の文化に近いと言えるのです……現代の日本には主体的な生き方や心の働きとしての文化や教養がないばかりか、文化とはそのやうな主体的な精神の型だという観念さへないのです……過去にたいする現代の優越を自覚するためでも、西洋にたいする日本の優越の保証を手に入れるためでもなく、むしろさういう自意識を抜け出たときに、あるいはまださういう自意識に落ち込まぬうちに、虚心に己を去つて古典に接しなければならない。さうしてこそ、古典は、伝統文化は、自分もまたその中にある現代文化として生きてくるのです……古典はそれを生きてみるべきもの、体験してみるべきものであります。それを鑑として自分を矯め、それに習熟すること、それ以外に古典とのつきあひ法はなく、それ以外に古典を理解する道はないのです……過去と絶縁してしまった現在は、未来からも絶縁されざるをえません……私たちの精神に内部には、現代の意識によつて照らしだされぬ暗い無意識の世界が深く澱んでいるのです。その無意識の世界を照らしだし、それに生気を与へるのが歴史、あるいは古典というものではないでせうか」と論じている。古典を大切にする精神すなわち伝統文化が、時を超越して今を生きる糧となる示唆である。小職は製品事業開発法や管理会計的講義を行うが、いかなる科目でも先行研究すなわち古典を重視する。ハウツー隆盛の現代に訴求しない技法だが、古典の時代を超越した普遍性、この感覚は恆存論考のママでなかろうか。
「伝統技術保護に関し首相に訴ふ」においては、「私が職人を敬愛するのは、彼等の仕事に対する良心、といふよりはその愛情に頭が下がるからです。それは一体何処から来るか。簡単な事です。それは彼等が物を扱ひ、物と附合つているというふ、ただそれだけの事です……物を処理する商人や経営者の生き方と申しましたが、実は商人や経営者もそれだけでは済まされない、やはりその根本には物と附合ひ、物に愛著を覚える心の働きがなければならぬ筈です」と重要な含意が目に入る。恆存は、職人の伝統と技術、商人や経営者にも通底するものは愛情ある附合いという。さりとて「附合う」とは何ぞや。「自然の教育」を紐解くと、「人柄といふものは、その人の人間附合ひの型を決定する、いや、その人特有の附合ひ方がその人の人柄すべてであると言へよう。その場合に、人と人の附合ひの根幹をなし、それを教育し維持してゆくものこそ、自然であり、自然との附合ひなのである……人と人との附合ひ方、即ち道徳を教へてくれるものは自然と措いて他に無い……自然は私達に忍耐を教へ、勇気を教へ、深切を教へる。思ひやりや愛情を教える。また時には冷酷になれと教え、厳しくなれと教へる。草木や山や河や、雪や嵐や、その他、自然現象のすべてが季節の転変を通じて、私達に絶えず道徳教育を施しているのだ」と述べている。要するに、人や物と「附合う」原風景は、自然の厳しくも愛ある附合いから修得されると云うのである。ルソー『エミール』の「自然に帰れ」を彷彿とさせる。小職の人生観からも、まったくその通りと言わざるを得ない。恆存の論考は既に古典化されたのだ。厳しい自然、魂の故郷で読むに相応しい名著であった。
散歩道の風景