2025年、日本は戦後80年を迎える。これは、先の戦争(日中戦争、日米戦争、英仏蘭との戦争、対ソ戦争の4つが含まれる)が終わった1945年から80年の間、日本が戦争に巻き込まれずに今日に至っていることを意味する。その間に日本は、平和な時間を享受し、高度な経済発展を遂げ、豊かになり、先進国入りした。今回はこの80年の意味を今一度問うとともに、これからの時代の経営について考えてみたい。
戦後80年とは
2025年、日本は戦後80年を迎える。これは、先の戦争(日中戦争、日米戦争、英仏蘭との戦争、対ソ戦争の4つが含まれる)が終わった1945年から80年の間、日本が戦争に巻き込まれずに今日に至っていることを意味する。その間に日本は、平和な時間を享受し、高度な経済発展を遂げ、豊かになり、先進国入りした。今回はこの80年の意味を今一度問うとともに、これからの時代の経営について考えてみたい。
終戦の1945年の時点で植民地支配を受けていた国・地域は、世界全体で93(Bastian Becker,2023)あり、同じ年に設立された国際連合の最初の加盟国はわずか51カ国(2024年末時点で193カ国)であった。つまり、多くの国が、1945年以降に独立し、植民地支配から解放された。しかしながら、その過程あるいは独立後も必ずしも社会が安定し、平和であったわけではなく、多くの紛争(国家間の戦争、地域紛争、国家内の紛争などを含む。本稿では文脈により“紛争”と“戦争”の両方を使う)が現代に至るまで続いている。スウェーデンのウプサラ大学が公開するデータベース(Uppsala Conflict Data Program)によると、1946年より現在まで、毎年世界のどこかで紛争は継続的に発生しており、近年の増加傾向により2023年の紛争数は59に達している(図1)。結果として紛争による死傷者はこの期間で絶えることはなく、また多くの国内外に避難を余儀なくされる人々が発生している。避難民の数は近年増加しており、2023年末時点で1億1,730万人(UNHCR)となっている。
図1 世界の紛争数の推移(1946-2023)
(冷戦終結後一旦減少するが、近年再び増加している)
現在の日本の人口の9割以上が戦後生まれであり、すでに多くの日本人にとって先の戦争は歴史上のできごととなり、戦争そのものも過去のものとの認識が大勢を占めるのではないかと推測される。しかしながら、戦争は決して過去のできごとではなく、現在でも人類を脅かし、あらゆる発展の阻害要因となっている。現在、先進国クラブと呼ばれるOECD加盟国は38カ国であり、IMFがアドバンスト・エコノミーと区分する国・地域も40に過ぎない。残りの8割以上(人口比率で85%以上)の国・地域(世界には現在未承認の国を含め約220の国・地域がある)は、未だ開発途上国に区分され、様々な基礎的課題に対処しながら、豊かになるための発展を目指している。その実現は決して容易ではなく、通常は一定の所得水準に達するには相当の時間を要する。他方、日本は戦後、焼け野原の状態から約10年で鉱工業の水準が戦前の水準まで回復(昭和29年度版経済白書)し、1956年7月に発表された白書の序文には「もはや戦後ではない」(昭和31年度版経済白書)と記載され、戦後復興が終結し、新たな発展段階に入ったことを宣言する象徴的な言葉として当時の流行語となった。その後、日本は1968年のGDPが1,466.01億USドル(World Bank Open Data)に達し、世界第2位の経済大国となった。このように日本は短期間で戦後復興から高度経済成長への道程を辿ることに成功したが、その背景・要因はどのように解釈できるのか、事項で詳しく考察したい。
奇跡の発展
日本の戦後の高度経済成長は、世界的に例外的であり「奇跡の発展」と言っても過言ではないものと思われる。その要因については、エズラ・ヴォーゲルの「Japan as No.1(1979年)」や世界銀行の「East Asia Miracle(1993年)」など、多くの研究で取り上げられ、興味深い分析・考察がなされている。筆者は、この奇跡は、「国際社会から与えられた要因(外的要因)」✕「日本の有していた要因(内的要因)」という掛け算から生まれたものではないかと考えている。
まずは、「国際社会から与えられた要因」から考えてみたい。敗戦国の日本に戦後提示された最大の条件は、当然のことながら非軍事化であった。非軍事化とは、軍事化につながる産業復興をさせないということであり、日本に対し許容するのは、第一次産業と軽工業だけというのが当初のGHQの考えであった。ところがその後、東西冷戦の激化を背景にアメリカの方針が転換され、日本とドイツは同盟国として西側経済圏に取り込まれることになった。それにより、両国の重工業も含む工業化が大きく進展することになる【外的要因①】。同時にアメリカからのガリオア・エロア資金、国際機関や国際NGOなどを通じて、多額の資金と援助物資が供与(2004年度版ODA白書など)されたことも復興の大きな推進力となった【外的要因②】。また、1950年~1953年の朝鮮戦争に伴う貿易額の増加や米軍駐留費などによるいわゆる朝鮮特需も日本の経済復興の加速化の一因として寄与(昭和29年度版経済白書)したと言える【外的要因③】。さらに敗戦国としての戦後処理の一貫としての賠償の多くは、賠償金の支払いではなく経済協力という形態で行われたことも大きい。経済協力のうち、円借款事業は返済される資金であり、日本の負担は大きく軽減された。また、日本の経済協力によるアジア地域のインフラ整備や人材育成などが、日本企業の海外展開を推進する効果ももたらした【外的要因④】。戦後、植民地支配されていた多くの国が独立したことで、資源のない日本が貿易を通じて工業などに必要な資源を自由に輸入することができるようになったこともプラスに働いた【外的要因⑤】。その他、GHQ政策による日本の再軍事の抑制とアメリカの核の傘の下に入る日米安保体制、平和憲法による戦争放棄、戦争に対する国民感情などの複合的要因により、戦後長きにわたり、軍事費(防衛費)を抑制(図2)し、結果として、より経済活動に集中できたという点も認識しておく必要がある【外的要因⑥】。
図2 日本と主なG7諸国の軍事費の推移(1949-2023)
(戦後しばらくの間、日本の軍事費は他のG7諸国に比べ少ない)
他方もう一方の「日本の有していた要因」にはどのようなものがあったであろうか?
まずは、高い教育水準が挙げられる。往来物(古くからの書簡でのやり取りなどより作成された教科書)を教材とする寺子屋などの江戸時代から存在する教育機関の寄与とともに、明治維新により教育の近代化が進み、明治時代初頭にはすでに義務教育が導入された。戦後の1949年には現在と同じ小学校・中学校が義務教育となり、早い段階で普通教育への就学率、識字率が向上し、国民全体としての基礎学力が高かった【内的要因①】。人的資本の側面では、教育に加え、健康面の向上も大きい。日本の平均寿命は戦後、どの国よりも急速に延び、1950年代前半には欧州に追いつき、1960年代にはすでに世界最上位の水準に達している(図3)。平均寿命には、様々な要因が関係しており、本来であれば容易には延伸しない。日本の場合、食料の確保、栄養バランス、安全な飲料水の供給、衛生環境の改善、乳幼児死亡率と妊産婦死亡率の減少、医療体制と医療アクセスの整備、衛生・体育教育、感染症対策、人為的死因の減少(暴力、交通事故など)などへの地道な取り組みの統合的成果として短期間で平均寿命が劇的に向上したと考えられる【内的要因②】。平均寿命の延伸による全人口と生産人口の増加が、戦後の順調な復興と産業の転換・拡大(工業化の進展など)と重なり、いわゆる人口ボーナス期を十分に活かすことができた【内的要因③】。また、産業面の発展においては、明治維新以降、欧米などの先進地域の技術や制度などを学びながら後進の利益を活かす開発(キャッチアップ型開発)が可能であったこと、その当時競合となる同じような発展段階・条件の国がほとんどなかったことなども日本の追い風となった。
図3 日本と主な地域の戦後の平均寿命の推移
(日本の戦後の平均寿命の延びは他国に比べ顕著に大きい)
この条件を最大限活かすことができたのは、基礎学力、優れたモノづくり技術、勤勉さなどの歴史的に培われてきた人的資質に関連する資本の蓄積が寄与したと考えられる【内的要因④】。順調な復興とともに、日本は1951年にアメリカとの間でサンフランシスコ平和条約を締結、1954年にはコロンボプランに加盟し国際協力を開始、1956年には国際連合に加盟、1964年にOECD加盟、と国際社会の一員として平和国家の地位を着実に築きながら、国際関係を構築したことが広く日本企業や個人が国際社会で活躍する基礎となったことも認識しておきたい【内的要因⑤】。
以上にあげた様々な外的要因と内的要因との相乗効果により、日本は無条件降伏を受け入れた敗戦国でありながら、短期間に復興、高度経済成長、先進国入りを果たし、国際社会における信頼・地位を大きく向上させた。日本は1989年にODA(政府開発援助)の実績額でアメリカを抜き初めて世界第1位となり、さらに1991年~2000年までの10年間、実績額で世界第1位を維持した。また、国内においては、1960年代中頃より国民の約9割が世論調査に対し生活の程度を中流と回答し、その状況は長きにわたり継続(歴代の国民生活白書)し、「一億総中流」という言葉が流行した。このような経済成長と所得水準の平等、長きにわたり戦禍にさらされることがない平和の維持の実現は、国際社会の歴史の中ではほとんど例がない。2011年3月の東北の震災に際しては、世界174か国・地域の政府・団体・個人より、人的、物的、金銭的支援を受けた(「東日本大震災への海外からの支援実績のレビュー調査」2013年3月一般財団法人 国際開発センター)。国を超えた支援が他国政府・国際機関のみならず、民間企業、NGO・団体等、市民社会全体を包含する形で行われた。経済発展の遅れている所得水準の低い国々や政情、経済が安定していない国々からも多くの支援やメッセージがあり、こうした国際的な相互扶助の精神が先進国である日本に対して提示された事実を忘れることなく記憶に刻む必要がある。ODAを含む過去の日本の支援に対する感謝に言及する国も数多く見られ、戦後の平和国家としての日本の歩みが総じて正しかったことが認識された。
積極的平和
2024年2月17日に「平和学の父」として知られるノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥング博士が死去した。ガルトゥング氏は、1959年にオスロ国際平和研究所を設立し、平和研究と平和学の普及に尽力するとともに、世界各地の紛争の調停に関わるなど、世界平和の進展に大きな功績を残した。ガルトゥング氏が提唱した著名な概念に「積極的な平和(Positive Peace)」がある。直接的暴力(戦争・紛争、暴行、脅迫、レイプ、残虐行為、テロ、殺人、民族浄化、強奪など)のない状態を「消極的平和(Negative Peace)」と呼び、直接的暴力に加え、戦争・紛争の原因となる構造的暴力(社会に内在化する貧困、差別、抑圧、搾取、不平等、不公正、欠乏、自由・機会・移動・権利の制約など)や文化的暴力(直接的暴力や構造的暴力を正当化・容認する意識・文化、暴力に対する無関心など)がない状態を「積極的平和」とし、積極的平和を目指すことの重要性を説き、その後の多くの平和への取り組み、平和学の関係者に影響を与えている。
では、積極的平和の実現にはどのような取り組みが必要であろうか?
戦争・紛争の原因は、領土問題、経済的要因、宗教やイデオロギーの対立、人種・民族対立、歴史的につくられた構図、偶発的事件など、多様である。戦争・紛争に対処するためのアプローチとして、一般に、①軍事的アプローチ、②政治的(外交的)アプローチ、③経済的・社会的開発のアプローチがある。通常、一旦戦闘が発生した場合には、その収束には①軍事的アプローチ、②政治的アプローチが不可避なケースが多い。他方、戦闘行為の予防や終結後の平和構築などに向けては、③経済的・社会的開発アプローチが重要な役割を果たす。①と②が限定された関係者であるのに対し、③は基本的にすべての人に関係し、また参加が可能なアプローチである。積極的平和の意図するところは、前述のとおり戦闘行為の終結に留まらず、その要因そのものを取り除く状態を目指すことであり、つまるところ、公正・公平・平等な経済基盤と社会基盤を築き、すべての人にその恩恵が行き渡り、すべての人が平和を享受するような開発を進めることであると解釈できる。もともと何もないところで最初から暴力的手段が選択されるケースはあまりない。経済と社会が安定した平和な状況の継続は、多くの人間の望むところであるということに疑いの余地はない。平和からの恩恵の享受は「平和の配当」と呼ばれるが、この平和の配当こそが戦争・紛争、あらゆる暴力への防波堤・抑止力となるはずだ。戦後80年を機に、我々が改めて認識する必要があるのは、日本はこの「平和の配当」を長きにわたり享受・実体験した世界でも数少ない国家の一つであるという点だ。前項にて日本の戦後の発展は「国際社会から与えられた要因(外的要因)」✕「日本の有していた要因(内的要因)」という掛け算から生まれた奇跡であることに言及したが、その大前提として、平和という条件があったことを今一度強調しておきたい。
筆者があえて本稿で「積極的平和」を取り上げた理由は、この概念に未来の社会と経営を考える上での重要な示唆が含まれているからだ。それは、目に見える直接的暴力に加え、社会には直接的には見え難い隠れた暴力、認識されにくい暴力が存在するという視座を提示している点である。確かに戦後、日本は平和の配当を受けたが、正確には消極的な平和からの配当が大部分であるように思われる。積極的平和という観点より、日本はどのように評価することができるであろうか?
2023年のノーベル経済学賞をアメリカのハーバード大学クラウディア・ゴールディン教授が男女の賃金格差などの研究成果が評価されて受賞した。男女の賃金格差は世界的な問題ではあるが、日本の2023年の男女の賃金格差は約22%でOECD加盟国平均の約2倍(OECD)となっている。日本のひとり親家庭の約半数が相対貧困の状態にあり、母子家庭は父子家庭の約1/2の就労収入しかない(厚生労働省「全国母子世帯等調査」)。また、家事の分担時間については男女比で女性が約5.5倍(OCED)となっており、OECD加盟国中最大となっている。もともとジェンダーギャップについては、家父長制や男尊女卑などに起因する部分があり、歴史的には世界的に存在し、未だに広く残っている。その中で、日本は特に近代においても世界に比べ性別役割が社会に明確に根付いている。その一因として、戦後に整備された社会保障制度、税制なども影響している。1979年8月に閣議決定された「新経済社会7か年計画」では、日本型福祉社会の実現が掲げられたが、夫婦の役割として、男性が仕事に専念し、女性が家事・育児を担うという「専業主婦世帯」という形が前提とされていた。この計画のもとになっている自由民主党による「日本型福祉社会」論はその後フェードアウトしていくが、社会構造の中に現在でも残り続けていることが否めない。
その他、社会の仕組み・理解・意識などの理由により、社会の中で弱者の立場に陥るケースは様々の形で存在する。2023年の時点で不登校の状態にある全国の小・中学生は約34万人、1ヶ月以上の長期欠席者は49万人となっており、近年増加傾向にある。認知された小・中・高校でのいじめ件数は73万件を超え、暴力行為は約11万件でいずれも増加傾向にある。一方で教員側の労働時間・環境の問題も深刻化しており、2023年に精神疾患で休職した公立の教員は7,119人にのぼり過去最高を記録した(いずれも文部科学省)。2021年の日本の相対貧困率は15.4%、子どもの相対貧困率は11.5%、ひとり親世帯では44.5%とOECD加盟国の中で最も悪い水準となっている(OECD、厚生労働省)。2023年時点にて、全国の15~64歳で引きこもりの状態にあり社会との関わりが難しくなっている人の数は把握されているだけで約146万人に達する。また、何等かの障害を抱える人の数は1,100万人を超え、人口の約1割を占める(厚生労働省)。それ以外にも原因不明の不定愁訴や疾患を抱えながら、個人ではどうすることもできない現実の前に苦しみ、結果的に命を落としたり、生活上最低限必要な健康すら損ねたり、意図しない不本意な行動に出る状況に追い込まれたりといったことは、数え切れないほど存在する。ガルトゥング氏の構造的暴力、文化的暴力という概念は、現代社会において我々が直面している問題に向き合うための視点、企業経営などにも意識しておく必要のある重要な前提条件を提示している。
これからの経営
本稿では、戦後80年の前半で日本は奇跡の発展を遂げたことについて考察した。他方、1990年代前半に日本はバブル経済の崩壊を経験し、1990年代中頃より、現在に至るまで停滞しており、「失われた30年」と呼ばれる時代をなかなか抜けきれない状況にある。この80年の意味を今一度、振り返り、これからの時代に何をすべきか、どのような経営が求められるのかを問うことが本稿の目的である。前項までにその議論のために必要なエビデンスに基づく材料を提示したつもりであり、それらに基づきまとめの考察をしたい。
日本の戦後のGDPの推移を見ると、1990年代中頃まで大きく成長・拡大し、その後停滞する。他方、もう一つ労働生産性という指標の推移を見ると、戦後の高度経済成長期を含め現在に至るまで一度もG7諸国の最下位から脱したことがない。そして、直近の30年は他の6カ国が増加傾向にあるのに対し、日本だけはほとんど増加していない(図4)。
図4 G7各国の1時間当たり労働生産性の推移
(戦後の高度経済成長期も含め日本がG7の最下位を脱した時期はない)
この事実をどのように解釈すべきであろうか?
日本は戦後、奇跡的に揃った条件と人口ボーナス期などを活かし開発途上国の状態から短期間で先進国入りすることには成功したものの、その後の世界経済や競争環境の変化、さらに人口オーナス期に入った先進国としての成長モデルに転換できないまま足踏みをしている状態にあると言える
戦後の発展のモデルは、“1”を外から学び、それを“2”にし、・・・“5”にするスタイルが大勢を占めていたと思われる。自動車、鉄道、機械、電気、建設、化学など、様々な分野でもともとは欧米から学んだ技術を応用し、世界トップクラスに引き上げたという事実がある。そういったキャッチアップ型のアプローチは、戦後の日本の実情に上手くマッチしたが、多くの国がグローバルに経済参加する現代社会、特に現在の日本が有する条件では通用しなくなっている。その点から考えると、これからは、“0”から“1”を生み出し、それを“2”へ、さらに“10”へ・・・そして“100”へとスケーラブルに価値を広げるようなアプローチを目指す必要がある。そのためには今までの価値観、発想法を一度リセットすることが必要だ。フローとしての活動の質を変える(良い方向に変化させる)のは、ストックとしての資本の質の向上とその蓄積に他ならない。重要なのは、この資本を如何に広い概念で捉え、具体的に一つ一つの資本を育て、蓄積することができるかである。多様な定義が存在するが、大まかに資本には、①企業の建物や設備、公共の道路・港湾・鉄道・上下水道などの「有形の資本」、②ソフトウエア、ノウハウ、技術、研究、権利、制度、ブランドなどの「無形の資本」、③人財に関連する「人的資本」、④他者との関係性に影響を与える「社会関係資本」、⑤人類の生存の前提となる「自然資本」、そして⑥資金となる「金融資本」など、があると考えられる。①~⑥までいずれも重要であり、これらのつながり、シナジーが重要となる点は言わずもがなであろう。前述した“0”から“1”を生む創造性と“1”をさらに拡大・最大化していくスケーラビリティには、特に②、③、④の資本が重要ではないかと考えられる。これらには見えにくいものが多くあり、資本として意識し、育てて、蓄積するという資本の成長循環を考えることが肝要となる。
最後に「人」という資本の形成という点に着目しながら、これからの社会と経営に求められる視点について提示したい。
1つ目として、ⅰ)人的資本の基本は、教育と健康だが、もう一つ潜在能力の発掘と育成という点を付け加えたい。もともと人財は多様であり、個々の人財も多様な能力を有している。さらに、前項のとおり、社会の仕組み・理解・意識の問題により、その能力が発揮できない人財も多くいることなどを認識し、この問題を社会や経営の課題として解決していく必要がある。基本となるのは多様性・公平性・包摂性(DE&I: Diversity, Equity & Inclusion)への理解の深化とそのために求められる場の構築であろう。多様な人財の多様な潜在能力が最大限発揮できるようにすることは、人的資本の最大化・最適化に向けた努力であり、当該個人・企業・社会のすべてにプラスのインパクトになるはずだ。次に、ⅱ)すでに多くの専門家が指摘するように、労働市場における自由な人の移動も重要な視点の一つである。日本社会では、終身雇用が、政府方針、企業の考え方として長らく定着してきたが、労働市場の需要と供給の状況が変化するのは自然なことであり、社会も企業もその前提にて、労働移動をプラスにするような努力が必要となってきている。国境を超えて海外より日本に就業機会を求めて来日する外国人も貴重な人財であり、こういったリソースの体制整備もさらに進める必要がある。ニーズの高い分野に必要な人財が移動すること、個人の潜在能力がより活かせる場での就業を可能とする社会のあり方をさらに模索していくことなど、は労働生産性の向上の上でも不可避のテーマであろう。最後に、ⅲ)極度の同調性意識からの脱皮に言及したい。日本の人財の特徴として、基礎学力が高いという点は疑いないところであろう。OECDによるPISA(生徒の学習到達度調査)、PIAAC(成人スキル調査)では過去継続して日本は最上位にある。日本人の課題は、平均点は高いが、秀でた能力に乏しいという点にある。これには同調性(同質性)の高い社会の特徴が深く関係しているのではないかと思われる。前述の「Japan as No.1」の中でエズラ・ヴォーゲルは、日本人を勤勉であり、基礎学力が高いと評価する一方、ピアノを習う人が多いのに秀でた芸術家が少ないという点を指摘している。周りがピアノを習っているからピアノを習うという動機が大勢を占めるという実情は、ピアノに限らず筆者が長年にわたり実感してきた日本社会の実像に合致する。「周りに歩調を合わす」、「周りを見て決める」、「異質な意見を言わない」、「同じ価値観に囲い込むことを好む」、などは筆者が今まで日本社会に対して感じてきたことだが、これは秀でた能力や意見を発掘したり、多様な人財の多様な能力を活かしたり、新たな一歩を踏み出す上では障壁となる。教養として広く多様な学びに向き合うこと自体は重要であり、また軋轢を生む人間関係にも賛成しかねるが、人財の潜在能力が活かせない社会では成長は望めない。最近の大リーガーの大谷翔平選手やピアニストの角野隼斗氏のような型破りの人財の活躍が示唆するものは大きい。
2025年を迎え、世界情勢は混沌としている。戦後80年を迎えるにあたり、平和の配当を受け、豊かな国になった日本の役割は、その実体験、学びを未来に伝えて行くことではないかと思う。積極的平和の実現には、あらゆる主体の協働作業が不可避であろう。個人、企業も含む組織、コミュニティ、地方自治体、国、地域、国際社会などの様々な階層での適正な行動と活動が必要となる。まずは、一人一人が平和とは何か、平和のために何ができるか、を考えること、そして平和の実現に努力するとともに、SDGsに通底する理念である「誰一人取り残さない」から「すべての人財がその潜在能力を活かすことができる」社会の構築に向け、行動していくことが肝要だと思う。